1945年8月9日午前11時2分、長崎市にアメリカ軍の原子爆弾「ファットマン」が投下されました。
広島への原爆投下からわずか3日後の出来事であり、この瞬間、長崎は未曾有の破壊と惨禍に見舞われます。爆心地は浦上地区で、半径2km以内はほぼ壊滅。推定で7万4千人が死亡し、その年末までに放射線障害などで被害はさらに拡大しました。
この日を「長崎原爆の日」あるいは「長崎原爆忌」と呼び、毎年長崎市の平和公園で平和祈念式典が開催されます。11時2分には市内外で黙祷が捧げられ、犠牲者を追悼するとともに、核兵器廃絶と恒久平和の願いが世界へ発信されます。
長崎が被爆都市になった理由
長崎は当初、原爆の投下目標ではありませんでした。第一目標は小倉(現・北九州市)でしたが、天候不良や煙で目標が確認できず、燃料残量の限界も迫っていたため、次候補の長崎が急遽選ばれます。
皮肉にも、当日の朝は雲が多かった長崎が、爆撃機の接近時には一時的に雲が切れ、爆撃が可能になってしまったのです。
被害を広げた地形と構造
長崎は山と入り江に囲まれた地形を持っています。この地形が、爆風や熱線の伝わり方を複雑にし、特定の谷筋で被害を集中させる一方、地形によって一部地域は被害を免れたともいわれます。また、木造家屋の密集や、爆心地付近にあった浦上天主堂などの大型建築物も被害の象徴となりました。
平和の象徴「平和祈念像」
長崎平和公園の中央に立つ平和祈念像は、彫刻家・北村西望による作品です。右手は原爆の脅威を、左手は平和を、軽く閉じた目は犠牲者への祈りを表しています。台座には「長崎市はこの像を通じて全世界に平和を訴える」と刻まれており、世界中から訪れる人々に深いメッセージを投げかけています。
なぜ8月9日が重要なのか
広島の原爆投下だけでなく、長崎の惨劇が国際社会に伝わったことで、核兵器の恐ろしさがより鮮明に認識されました。そして、8月15日の終戦を迎えるわずか6日前、この悲劇は世界史の大きな転換点となります。
長崎原爆の日は、単なる過去の出来事を追悼するだけでなく、「二度と同じ過ちを繰り返さない」という未来への誓いの日でもあります。
読者へのメッセージ
長崎原爆の日は、単なる歴史の一ページではなく、現在を生きる私たちへの強い問いかけです。
平和は偶然に訪れるものではなく、人々が絶えず選び続け、守り抜くもの。8月9日は、過去を忘れず、未来への責任を自覚するための大切な節目なのです。
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