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みたらしだんごの日(毎月3日・4日・5日)|京都・御手洗池から生まれた和菓子

もちもちとした団子に、とろりとした甘辛いたれ。 醤油の香ばしさと砂糖の甘さが重なる「みたらしだんご」は、スーパーや和菓子店でもおなじみの日本の和菓子です。 そんなみたらしだんごには、毎月3日・4日・5日の記念日があります。 身近なおやつとして親しまれている一方、その名前には京都の神社にまつわる由来があることをご存じでしょうか。 毎月3日・4日・5日は「みたらしだんごの日」 「みたらしだんごの日」は、毎月3日・4日・5日です。 日付は、 3日=「み」 4日=「たらし」 5日=「だんご」 という語呂合わせから付けられています。 記念日を制定したのは山崎製パン株式会社で、一般社団法人日本記念日協会に認定・登録されています。 毎月訪れる3日間を、みたらしだんごを楽しむきっかけにする記念日です。 「みたらし」は京都の御手洗池が由来 みたらしだんごは、漢字では「御手洗団子」と書きます。 この「御手洗(みたらし)」は、京都の下鴨神社にある「御手洗池」に由来するとされています。 下鴨神社の公式サイトによると、御手洗池から湧き上がる水泡の姿を団子に見立てたものが、みたらし団子の発祥とされています。 つまり、現在の「みたらし」という名前は、甘辛いたれそのものから生まれた言葉ではありません。 京都の神社にある池の名前が、現在まで親しまれている和菓子の名前につながっているのです。 水泡を団子に見立てたという由来 みたらし団子の起源については、御手洗池の水面に浮かぶ泡を団子に見立てたという由来が伝えられています。 さらに、後醍醐天皇が下鴨神社を訪れた際、御手洗池の水をすくったところ、最初に一つ、その後に四つの泡が浮かんだという話もあります。 ただし、これはみたらし団子の由来として伝えられている説の一つです。 起源については文献上はっきりしない部分もあるため、歴史的事実として断定するのではなく、京都に伝わる由来として見るのがよいでしょう。 甘辛いたれが定番になったみたらし団子 現在のみたらし団子といえば、焼いた団子に甘辛い醤油だれを絡めたものが一般的です。 みたらし団子は、もともと醤油でつけ焼きにした団子として知られ、その後、甘醤油のたれを使ったものも広まりました。 焼いた団子の香ばしさに、醤油の風味と砂糖の甘さが加わることで、独特の甘じょっぱい味わいが生まれます。 シンプルな材料だからこそ、...

チャトゥーガ川(Chattooga River)|アメリカ南東部に残る野生の川と映画の舞台

アメリカ南東部、アパラチア山脈の豊かな森の中を流れる「 チャトゥーガ川(Chattooga River) 」。 ノースカロライナ州に源を発し、サウスカロライナ州とジョージア州の州境付近を流れるこの川は、深い森や岩壁、急流など、手つかずに近い自然が残ることで知られています。 そしてチャトゥーガ川には、もう一つ興味深い顔があります。 実は、1972年に公開された映画『Deliverance(脱出)』の撮影地としても知られているのです。 今回は、自然と歴史、映画文化が交差するチャトゥーガ川の魅力を見てみましょう。 チャトゥーガ川はどこを流れている? チャトゥーガ川は、アメリカ南東部のノースカロライナ州にあるアパラチア山脈の山地を源流としています。 その後、南西方向へ流れ、サウスカロライナ州とジョージア州の境界を形成する区間があります。 川は最終的にタルラ川(Tallulah River)と合流してトゥーガルー川(Tugaloo River)へとつながり、さらにサバンナ川水系へ流れていきます。 つまり、山の中の一見静かな川ですが、その水はやがて大西洋へ向かって流れていくのです。 アメリカ魚類野生生物局によると、チャトゥーガ川は山間の小さな流れから始まり、約57マイルの指定区間を持つ川として紹介されています。 「ワイルド・アンド・シーニック・リバー」に指定された川 チャトゥーガ川を語るうえで欠かせないのが、**National Wild and Scenic Rivers System(国立ワイルド・アンド・シーニック・リバー制度)**です。 これは、優れた自然・景観・レクリエーション・地質・歴史などの価値を持つ川を、できるだけ自然な状態で守るための制度です。 チャトゥーガ川は1974年5月10日、約57マイルがこの制度の対象に指定されました。 指定された区間には、 ワイルド シーニック レクリエーション という3つの分類があり、特にワイルドに分類される区間が多いことも特徴です。 アメリカ魚類野生生物局の資料では、指定区間のうち約41.6マイルが「Wild」、2.5マイルが「Scenic」、14.6マイルが「Recreational」とされています。 つまりチャトゥーガ川は、単に「きれいな川」というだけではありません。 自然そのものを残す価値が認められ、国によって保護されてい...

望遠鏡の日(10月2日)|ガリレオが見た宇宙と望遠鏡の歴史

夜空を見上げると、星は小さな光の点に見えます。 ところが望遠鏡を使うと、月の表面や木星の衛星など、肉眼では分からなかった天体の姿が見えてきます。 人間の「もっと遠くを見たい」という好奇心から生まれた望遠鏡は、やがて宇宙を調べるための重要な道具へと発展しました。 10月2日は、そんな望遠鏡の歴史を振り返る「望遠鏡の日」です。 10月2日は「望遠鏡の日」 「望遠鏡の日」は、1608年10月2日に由来します。 この日、オランダの眼鏡技師ハンス・リッペルハイが、遠くにあるものを近くに見えるようにする装置について特許を申請しました。 特許そのものは認められませんでしたが、この申請記録は望遠鏡の初期の歴史を知るうえで重要な資料となっています。 国立天文台も、1608年10月2日のリッペルハイによる特許申請を、望遠鏡の日の由来として紹介しています。 興味深いのは、この時点では望遠鏡がまだ「宇宙を見るための道具」として登場したわけではないことです。 もともとは、遠くにあるものを近くに見えるようにするための光学機器でした。 そこに天文学という新しい用途が加わったことで、望遠鏡の役割は大きく変わっていきます。 ガリレオが望遠鏡を天体観測に使った 望遠鏡の歴史で欠かせない人物が、イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイです。 ただし、ガリレオが望遠鏡そのものを発明したわけではありません。 1609年ごろ、望遠鏡の存在を知ったガリレオは、自ら望遠鏡を製作し、改良を重ねました。 そして、その望遠鏡を夜空へ向けます。 これによって望遠鏡は、「遠くを見る道具」から「宇宙を観測する道具」へと大きく発展していきました。 ガリレオは月や木星、金星などを観測し、肉眼では見えなかった天体の姿を記録しました。 月は完全になめらかな天体ではなかった ガリレオが望遠鏡で月を観測すると、表面には山やくぼみなどの凹凸があることが分かりました。 肉眼では明るく輝く円盤のように見える月も、詳しく観察すると複雑な地形を持っています。 望遠鏡によって、それまで見えなかった情報を実際に観測できるようになったのです。 これは望遠鏡の歴史を考えるうえで重要な出来事でした。 望遠鏡は単純に「大きく見せる道具」ではなく、 肉眼では得られない情報を観測するための道具 になったからです。 木星の周りを動く4つの天体 ガリレオの観測でも特に有名...

オルムステッド・ポイント(Olmsted Point)|ヨセミテ国立公園の氷河が刻んだ大地とハーフドーム

アメリカ・カリフォルニア州にあるヨセミテ国立公園には、ハーフドームやエル・キャピタンなど、世界的に知られた景観があります。 そのなかでも、少し違った角度からヨセミテの大自然を眺められる場所が「オルムステッド・ポイント(Olmsted Point)」です。 タイオガ・ロード(Tioga Road)沿い、標高約2,560mの場所にあり、ハーフドームやクラウズ・レスト、テナヤ湖などを一望できます。 一見すると「山を眺める展望台」に思えますが、ここにはヨセミテの景観がどのようにつくられたのかを感じられる、興味深いポイントがあります。 オルムステッド・ポイントから見るハーフドーム オルムステッド・ポイントの大きな特徴は、ハーフドームを普段とは異なる方向から眺められることです。 ヨセミテ渓谷から見るハーフドームは、巨大な岩壁がそびえ立つように見えます。 一方、オルムステッド・ポイントから見ると、その背後に広がる山々や岩のドーム、谷まで視界に入り、ハーフドームを含めた広大な地形を一度に眺めることができます。 同じハーフドームでも、立つ場所が変わるだけで印象が大きく変わるのです。 実は「氷河の跡」を観察できる場所 オルムステッド・ポイントの面白さは、景色だけではありません。 足元の岩にも、ヨセミテの地形が生まれた歴史が残されています。 この地域では、かつて巨大な氷河が大地を覆っていました。 氷河はゆっくりと移動しながら、岩盤を削り、谷を広げていきました。 ヨセミテの特徴的なU字谷や丸みを帯びた花崗岩のドームなどは、こうした氷河の作用と深く関係しています。 オルムステッド・ポイントでは、氷河によって運ばれてきた「迷子石(glacial erratics)」も見ることができます。 これは、氷河に運ばれてきた岩が、氷河が後退したあとにその場へ残されたものです。 つまり、そこにある大きな岩を眺めているだけでも、「かつてここを巨大な氷の流れが通っていた」という過去を想像できます。 ヨセミテの花崗岩は地下深くで生まれた ヨセミテの景観を語るうえで欠かせないのが「花崗岩」です。 ヨセミテの巨大な岩山は、もともと地表にあったものではありません。 約1億年前、現在のヨセミテ周辺では地下深くでマグマがゆっくり冷えて固まり、花崗岩質の岩石が形成されました。 その後、シエラネバダ山脈が隆起し、長い年月をか...

釜飯の日(毎月1日)|旬の味わいとおこげから感じる日本の食文化

毎月1日は「釜飯の日」です。 ふたを開けた瞬間に立ち上る湯気。 だしの香りとともに顔をのぞかせる鶏肉やきのこ、野菜、魚介。 そして、最後に釜の底から現れる香ばしいおこげ。 釜飯は、米と具材を一緒に炊き上げることで、それぞれのうま味を一つの釜に閉じ込めて味わう料理です。 そんな釜飯を、もっと身近な日本の食文化として楽しんでもらいたいという思いから制定されたのが「釜飯の日」です。 今回は、毎月1日の「釜飯の日」の由来から、釜飯ならではのおいしさ、具材の楽しみ方、そして一杯の釜飯から感じられる日本の食文化まで紹介します。 毎月1日は「釜飯の日」 「釜飯の日」は、釜飯専門店「釜めしもよう」「釜のや」の全国展開や、釜飯器具の製造・販売などを行う株式会社前田家が制定した記念日です。 日付が毎月1日なのには、はっきりとした由来があります。 「釜めしもよう」の創業記念日が、1995年(平成7年)7月1日。 この「1」にちなみ、毎月1日が「釜飯の日」とされました。 単なる語呂合わせではなく、創業という節目の日付から「1」が選ばれているところが、この記念日の特徴です。 そこには、日本文化のひとつである釜飯を、より身近に、そしてより多くの人に食べてもらいたいという思いが込められています。 「釜飯の日」は、一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録されています。 毎月訪れる1日を、釜飯に目を向けるきっかけにできる記念日なのです。 そもそも「釜飯」とは? 釜飯とは、米と具材を釜に入れ、だしや調味料などとともに炊き上げる料理です。 白いご飯の場合、米そのものの味を楽しむことが中心になります。 一方、釜飯では米と具材を一緒に炊くため、炊いている間に具材の風味やだしの味わいがご飯に加わります。 鶏肉やごぼう、にんじん、しいたけなどを使ったものはもちろん、山菜、たけのこ、きのこ、栗、魚介類など、さまざまな食材が使われます。 つまり釜飯は、「ご飯の上に具材をのせる料理」というより、 米と具材を一緒に炊き上げ、それぞれの味を一つにまとめていく料理 と考えると、その特徴がより分かりやすくなります。 ふたを開けるまで分からない「楽しみ」 釜飯には、食べる前から楽しめる要素があります。 それが、ふたを開ける瞬間です。 釜にふたがされている状態では、中にどんな具材がどのように入っているのか、すべてを見ることは...

ヒゲガラ(髭雀)|「ひげ」のような模様を持つアシ原の小鳥と季節の暮らし

アシ原を歩いていると、細い茎の間を小さな鳥がすばやく移動していることがあります。 その中でも、ひときわ目を引くのが「ヒゲガラ」です。 オスの顔には、まるで口元から伸びた「ひげ」のような黒い模様があり、名前もこの特徴から付けられています。 一見すると小さなシジュウカラの仲間のようにも見えますが、実は分類上はシジュウカラ科ではありません。 アシ原という独特な環境に適応し、季節によって食べ物まで変えるヒゲガラ。 今回は、そんなヒゲガラの姿や暮らしをのぞいてみましょう。 ヒゲガラってどんな鳥? ヒゲガラ(髭雀)は、スズメ目ヒゲガラ科に分類される小鳥で、学名は Panurus biarmicus です。 英語では「Bearded Reedling」と呼ばれています。 その名前からも分かるように、アシ原との結びつきがとても強い鳥です。 特にヨーロッパなどの広いアシ原を生活場所としており、アシの茎や葉の間を移動しながら暮らしています。 体重は約15gほどと小型ですが、長めの尾を持っているため、細身でスラリとした印象があります。 名前の由来は「ひげ」のような模様 ヒゲガラ最大の特徴は、なんといっても顔です。 オスは灰色がかった頭部に、目の下から伸びる黒い模様があります。 この模様がまるで「ひげ」のように見えることから、ヒゲガラという名前で呼ばれています。 さらに、赤褐色の体と長い尾を組み合わせた姿は、一般的な小鳥とは少し違った独特の雰囲気があります。 アシ原の中にいると保護色のようにも見えますが、オスの顔をよく見ると、その特徴的な「ひげ」を見つけることができます。 実は「ガラ」の仲間ではない? 名前に「ガラ」と付いているため、シジュウカラやヤマガラなどの仲間だと思ってしまいそうです。 ところが、ヒゲガラは分類上、シジュウカラ科ではありません。 ヒゲガラ科に分類される独立したグループの鳥です。 見た目だけでなく、分類上も個性的な存在といえるでしょう。 「ヒゲガラ」という名前を見てシジュウカラの仲間を想像すると、少し意外に感じるかもしれません。 一年を通してアシ原で暮らす ヒゲガラにとって、アシ原は単なる休憩場所ではありません。 繁殖にも越冬にも利用する、大切な生活環境です。 アシの茎や葉が密集した場所を移動しながら、食べ物を探したり、身を隠したりします。 そのため、ヒゲガラの暮らし...

くるみの日は9月30日|縄文時代から続く食文化と信濃くるみの話

9月30日は「くるみの日」です。 香ばしくてコクのあるくるみは、パンや焼き菓子、和菓子などに使われる身近なナッツですが、実は日本人との付き合いはとても長く、縄文時代の遺跡からもくるみが見つかっています。 さらに、長野県東御市は現在もくるみの産地として知られ、「信濃くるみ」と呼ばれる国産くるみが育てられています。 普段何気なく食べているくるみを少し掘り下げてみると、そこには長い食文化と、土地に根付いた栽培の歴史が見えてきます。 9月30日は「くるみの日」 「くるみの日」は、くるみの生産地として知られる長野県東御市などのくるみ愛好家によって制定された記念日です。 日付の由来は語呂合わせ。 「9」を「く」、「3」を「るみ」と読み、最後の「0」を「まるい」と見立てて、 「く(9)るみ(3)はまるい(0)」 という形から9月30日になったとされています。 少しユニークな語呂合わせですが、くるみをイメージしやすく、覚えやすい日付でもあります。 また、9月は秋の味覚が楽しみになる時期。 くるみの魅力や食材としての用途の広さに目を向けるには、ちょうどよい季節ともいえます。 くるみの名産地として知られる長野県東御市 くるみと聞いて、長野県を思い浮かべる人はそれほど多くないかもしれません。 しかし、長野県東部に位置する東御市は、国内有数のくるみ産地として知られています。 東御市では「信濃くるみ」と呼ばれるくるみが主に栽培されています。 東御市は、雨が少なく晴天率が高いことに加え、冷涼な気候と水はけのよい土壌に恵まれており、くるみの栽培に適した環境が整っています。 東御市のくるみ栽培の始まりは大正時代までさかのぼります。 大正天皇の即位を記念して、現在の東御市にあたる地域へくるみの苗木が配布されたことが、栽培の始まりとされています。 その後、この土地の気候や土壌を生かしながら、くるみの栽培が地域に根付いていきました。 「信濃くるみ」はどんなくるみ? 東御市で主に栽培されている「シナノグルミ」は、現在の東御市周辺で育てられてきた品種群です。 その背景には、江戸時代に中国・朝鮮から入ったカシグルミと、明治時代に欧米から入ったペルシャグルミの自然交雑があります。 一般的なくるみといえば、硬い殻を割って中の実を取り出すイメージがあります。 ところが、シナノグルミは比較的殻が薄く、実を取り出しやす...

カシロフ川(Kasilof River)|ツツメナ湖から流れるミルキーブルーの川とサーモン

アメリカ・アラスカ州南部、キナイ半島にあるカシロフ川(Kasilof River)。 広大な自然が広がるアラスカの中でも、カシロフ川は特に「川と湖と海、そして野生動物」がつながっていることを感じられる場所です。 川の周辺には森林や湿地が広がり、河口ではクック湾(Cook Inlet)へとつながります。そして夏になると、多くのサーモンが川を遡ります。 今回は、そんなカシロフ川の知られざる特徴や、サーモンとの深い関係、周辺の歴史について紹介します。 カシロフ川はどこにある? カシロフ川は、アラスカ州南部のキナイ半島にあります。 周辺の町カシロフは、ソルドトナからスターリング・ハイウェイを南へ進んだ場所にあります。川沿いには州立レクリエーション施設もあり、釣りやキャンプ、野生動物観察などを楽しめる地域です。 カシロフ川の大きな特徴は、内陸の水域からクック湾へと流れ込んでいること。 川の河口付近では、淡水と海水が出会う河口域が形成され、魚だけでなく鳥や海の生き物も集まります。 つまりカシロフ川は、単なる「一本の川」ではなく、森林、湿地、河口、海がつながる自然環境の一部なのです。 カシロフ川の源流とツツメナ氷河 カシロフ川の流れをたどっていくと、その上流にはツツメナ湖があります。 そしてツツメナ湖には、周辺の氷河から生まれた水が流れ込んでいます。 特に注目したいのが ツツメナ氷河 です。 ツツメナ氷河の融け水はツツメナ湖を経て、やがて**カシロフ川(Kasilof River)**へと流れ込みます。 氷河の水には、氷河が長い時間をかけて岩盤を削ることで生じた非常に細かな岩石の粒、いわゆる 氷河岩粉 が含まれています。 この微細な粒子が水中に浮かぶことで、光が散乱し、氷河から流れ出る水は美しい**ミルキーブルー(乳青色)**に見えることがあります。 透明な川とは少し違う、白みを帯びた青色。 これは単なる水の色ではなく、氷河が大地を削りながら流れてきたことを感じさせる色でもあります。 ツツメナ氷河から生まれた水がツツメナ湖に集まり、そこからカシロフ川となって流れ、最後にはクック湾へ注ぐ。 この水の旅を知ると、カシロフ川を眺めるときの印象も変わってきます。 カシロフ川を代表する魚「サーモン」 カシロフ川を語るうえで欠かせないのがサーモンです。 この川の水系では、キングサーモン、ベニ...

洋菓子の日(9月29日)|サン・ミシェル(大天使ミカエル)と洋菓子の歴史、名前の由来

9月29日は「洋菓子の日」です。 ショートケーキやシュークリーム、モンブラン、プリン、チョコレートなど、私たちの身近にはたくさんの洋菓子があります。 普段何気なく食べている洋菓子ですが、その背景をたどってみると、意外な歴史や名前の由来が隠れています。 今回は「洋菓子の日」をきっかけに、洋菓子が日本でどのように親しまれるようになったのか、そして身近なお菓子にまつわる話を見ていきましょう。 9月29日は「洋菓子の日」 「洋菓子の日」は、洋菓子の魅力を多くの人に知ってもらうことを目的として、三重県洋菓子協会が制定した記念日です。 日付の9月29日は、フランスの菓子職人の守護聖人とされる**サン・ミシェル(大天使ミカエル)**に由来しています。 サン・ミシェル(大天使ミカエル)の祝日は9月29日であることから、この日が洋菓子の日に選ばれました。 「洋菓子の日」という名前から、単純に「洋菓子を食べる日」と思ってしまいそうですが、実は西洋の菓子職人と深いつながりを持つ日なのです。 そもそも「洋菓子」とは? 洋菓子とは、一般的にはヨーロッパなど西洋の食文化をもとに、日本で発展してきた菓子のことを指します。 ケーキ、パイ、タルト、シュークリーム、プリン、クッキー、チョコレートなど、現在では非常に多くの種類があります。 一方、日本には、ようかん、まんじゅう、だんご、最中、どら焼きなどの「和菓子」があります。 ただし、洋菓子と和菓子の境界は必ずしも単純ではありません。 たとえばカステラは西洋から伝わった菓子をもとにしながら、日本独自の製法や味わいへと発展しました。 このように、海外から伝わったお菓子が日本の食文化の中で姿を変えていくことも、洋菓子の歴史を考えるうえで興味深いところです。 洋菓子はいつ日本に伝わった? 日本に西洋の菓子が伝わったのは、16世紀の南蛮貿易の時代です。 ポルトガルやスペインなどから訪れた人々によって、カステラや金平糖などの菓子が伝えられました。 当時の日本では、砂糖そのものが現在ほど身近なものではありませんでした。 そのため、砂糖をふんだんに使った西洋の菓子は、珍しく貴重な存在だったと考えられます。 その後、時代が進むにつれて西洋文化が日本へ広がり、明治時代以降には洋菓子を専門に扱う店も増えていきました。 そして現在では、洋菓子は特別な日のものだけではなく、日...

アンベール城(Amber Fort/Amer Fort)|山の上に築かれた城塞と華麗な宮殿の見どころ

インド北西部、ラージャスターン州の州都ジャイプール。 その郊外の丘の上に、まるで山そのものに溶け込むように築かれた壮大な城があります。 それが**アンベール城(Amber Fort/Amer Fort)**です。 遠くから見ると、分厚い城壁を持つ堅固な要塞。 ところが中へ入ると、華麗な門、庭園、宮殿、鏡で飾られた部屋など、王宮らしい優雅な空間が次々に現れます。 「戦うための城」と「暮らすための宮殿」。 一見すると正反対に思える二つの役割を、ひとつの場所に凝縮しているのがアンベール城の大きな魅力です。 アンベール城はどこにある? アンベール城は、インドのラージャスターン州ジャイプールから約11kmの場所にあります。 現在のジャイプール市街地から見ると、丘陵地帯の中にそびえる壮大な城塞です。 アンベールはかつて、この地域を治めたカチワーハ家の拠点でした。 その後、18世紀にジャイプールへ都が移されましたが、アンベール城には現在も当時の王家の繁栄を伝える宮殿や城壁が残されています。 そして2013年には、「ラージャスターンの丘陵城塞群」の構成資産のひとつとして、ユネスコ世界遺産に登録されました。 「アンベール」と「アメール」は同じ? アンベール城を調べていると、 「Amber Fort」 「Amer Fort」 「Amber Palace」 など、いくつかの呼び方が出てきます。 これは別々の城ではありません。 日本語では「アンベール城」と呼ばれることが多いですが、英語では「Amer Fort」や「Amber Fort」と表記されます。 ラージャスターン州政府の観光情報でも「Amber Palace」として紹介されており、複数の呼び方を知っておくと、海外の資料を調べるときにも便利です。 現在の城の建設は1592年から アンベール城の現在につながる大規模な建設は、1592年にマハラジャ・マン・シン1世によって始められました。 その後も歴代の支配者によって増築や整備が続けられ、現在見られる壮大な宮殿群へと発展していきました。 つまりアンベール城は、一人の王が一度に完成させた建物というよりも、 時代を重ねながら姿を変えてきた巨大な王宮・城塞 なのです。 城なのに、なぜこんなに華やかなの? アンベール城の面白いところは、外側と内側の印象が大きく違うことです。 外側には、丘陵に沿って...